お知らせ・コラム

最終日①

飛鳥時代の豪族、蘇我蝦夷(そがのえみし)入鹿(いるか)邸宅があった甘樫丘(あまかしのおか)で蘇我氏滅亡前の新たな遺構が見つかった!と。。。。。若い頃、その時代が題材の小説を読みながら、どんな人達がどんな姿をして甘樫丘でどんな生活をしていたのかしら?とワクワクしながら想像していました。それと同時に、小説に書かれるような人達は身分の高い人たちで、庶民はどんな生活だったのだろう?とか、藤原鎌足(ふじわらのかまたり)足って書くのにどうして「タリ(韓国語では足のことをタリとかバルとかいうらしい、そこから来てるのかしら?とか思いながら)」って言うのかしら?とか想像を逞しくしておりました。

今回韓国で度々優雅に飛んでいた鵲(かささぎ、鳴き声は優雅な姿とは程遠いのですが(笑))は、私が小さい頃聞いていた話では、日本には佐賀県にしかいないという事で、父が佐賀県出身なので伊万里に帰ると鵲の事を「カチガラス」と教えられていました。なぜ「カチガラス」というのか?考えたこともなかったのですが、韓国語で「カチとかカッチ」というそうです、何十年も経って、へ〜!それで「カチガラス」だったのね!と判明、やはり、日本は中国、韓国とは縁が深いんだなぁ!と思いました。

なんだか、前置きが長くなってしまいました。

最終日、午前に少し時間が有るのでオプション(旅行社負担でした、先日のお茶会のケーキも添乗員さんの奢りだったのに、申し訳ない)で宗廟に行きませんか?と添乗員さんからご提案いただいて、是非!と宗廟に行きました。

宗廟は宮殿で三年の喪を行った後、朝鮮王朝、大韓帝国の王と王妃、皇帝と皇后の位牌を安置する為の建物です、正殿、永寧殿他からなる広い広い処でした。永寧殿は王室の先祖や王族の位牌を安置してあります。今でも毎年5月に宗廟祭礼が李氏の末裔によって行われているそうです。

宮廷の東、左側に宗廟、西、右側に社稷壇(しゃしょくだん、社は土地の神、稷は五穀の神)を置くという古代中国の思想から、景福宮の左側に宗廟が建てられ、神主(シンジュ、位牌)が増えるにつれて増築され今の形になったと説明を受けました。

正殿、永寧殿に続く三列の石の道は、中心は前王の魂がお通りになる道、両側は王、世子(セジャ、王位継承者)が通る道なので、真ん中は絶対に歩かないでください!と。。。。両端は歩いていいですよ!との事で、どうせなら王様が通られた方を通ろう!と歩いてきました。

此処でも日本による占領時代、この道の石を剥がされてしまったけれど後から修復しました!との事、日本人は死者に対して畏敬の念も、畏怖の念も、どの国よりも一人一人が持っているはずなのに、戦争とは人格まで変えてしまうのかしら?と残念に思いました。

永寧殿の向かって右端には、最後の皇太子李垠(い・うん)と皇太子妃李方子(い・まさこ、梨本宮方子女王)の位牌も祀られていると説明を受けました。

戦争による政略結婚であり、情勢に翻弄されながらの結婚生活にも関わらず、それはそれはお互いを大事に想われていたと色々なもので読んだ事があるので、ガイドさんに「とても想い合われていたんですよね?」と質問すると「ラブラブでいらしたようですよ」との答えが返ってきました。李垠が亡くなった後も韓国に留まり、障害児教育に邁進された事は、その頃まだ子供だった私にも素晴らしい!と心に響く生き方でした。その方の魂がラブラブだったご主人と一緒に李氏の宗廟に祀られているのは、良かった〜!と、とても感動しました。

宗廟の柱の下には、青と茶色と赤の巴の様な紋様が有りました、ガイドさんにあれはどういう意味ですか?と聞くと、天地人の三つの色で韓国の国旗もここから来ています。だそうです。

韓国国旗の太極には太極図の「陽の中の陰」「陰の中の陽」は無いねぇ!と主人と話していたのですが、宗廟の天地人の巴と関係してるのかしら?と思いましたが、質問する時間が無くて残念でした。

鵲も多く飛んでいて(その度に大騒ぎする日本人、韓国の方にはどう見えたかしら笑)、ソウルの街中とは思えない素晴らしい場所でした。

時間が出来て、連れて来てもらえて幸せでした。

午後から出国迄は又数日後に。。。。。

宗香

 

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