啓蟄も過ぎ、20日の春分を楽しみに‥‥河津桜はもう終わりですね、早咲きの桜が咲き始めていますし、ソメイヨシノの蕾も少し大きくなった様な気がします。
太宰府天満宮での曲水の宴参宴のアルバムが見つかりました。母が十二単衣の着付けからの写真や新聞の切り抜き等を全て綺麗にアルバムにしてくれていました。
昭和55年に新しく太宰府天満宮に作られた曲水の庭、造園学の加藤退介先生が韓国慶州に有る高麗時代の庭をモデルに再現された!とあります。という事は、私が参宴させていただいたのは、お庭が出来た最初の曲水の宴だったのですね。
十二単衣が着てみたい❣️という大した考えもなく言っている私の我儘を叶える為に、両親が手を尽くして探してくれた場所がこの曲水の宴参宴でした。私はそんな大層なことではなくて、ただちょっと着てみられれば良かったのですが、多分紹介者が太宰府天満宮にとって重要な方だったらしく、ミス福岡を差し置いて姫の中で1番最初に歩き、最初のお酒を注ぐ役になり、そんなつもりは無かったのに大掛かりになってしまったことに、申し訳ない様な恥ずかしい気持ちになりました。
諸説有るのでしょうが、そのプログラムの中には曲水の宴は秦の昭王(紀元前325年〜紀元前251年)の時代に創まり、日本では宇多天皇(870年代)の頃に始まったといわれている、太宰府では大伴旅人等が行っていたのではないかと思われる。曲水の宴に用いられた神酒は、昔から糟屋郡酒殿から出ていた、今でもこの地名は有ります。
もっと色々書いてあるのですが全部は書けないので‥‥
日本では盃が流れて来る迄に歌を詠む!と言われているようでが(これも諸説ある様ですが‥)、中国では盃が流れて来るまでに詩が詠めなければお酒を呑む!所謂罰盃?
中国では上巳に水辺で禊を行う風習があったとか、それが盃を水に流す宴(流觴曲水)になったと書かれています。
353年、王羲之が蘭亭で曲水の宴を催し、その時に詠じられたのが「蘭亭序」。
会稽山の麓にある蘭亭(浙江省紹興、紹興酒ができる所)に行った時に蘭亭序の石碑を見て、曲水の川に盃(耳盃、じはい)を浮かべてみんなで歌を詠みました。懐かしい思い出です。
残念な事に王羲之の蘭亭序は、王羲之の書をこよなく愛した太宗皇帝が亡くなった時に陵墓に一緒に埋葬させたため現存はしないそうです。