梅雨末期の大雨が各地で続いています。被害に遭われてはいらっしゃいませんか?被害に遭われた方もいらっしゃって心が痛みます、お見舞い申し上げます。
パリオリンピックが近づいて報道が加熱して来ました。メダル予想なる報道も有ります。オリンピックに出られるほどの方々ですから、期待される事がモチベーションになったり、その期待へのプレッシャーに勝つメンタルも持ち合わせていらっしゃるのでしょう。メダルを取る方も、メダルに手が届かない方もいらっしゃいますが、その方の全力が出せますように!
もしも、メダル候補の方が何かのハプニングでメダルを取れなかった時も、それまでの頑張りに対してリスペクトして頂きたいのです。随分前ににメダル確実!と騒がれて、持ち上げた報道をされたのにメダルを逃した選手を知っています。その子が小さな頃からどんなに辛い練習を頑張って来たのか知っていた私は、そうかぁ!取れなくて残念だったけど、あれだけ頑張った事は評価できるし、これからの人生に最大の糧になる!と思いました。その思いに相反するように、その後の報道は、リスペクトとは程遠いものでした。頑張りを知っている者としては怒りにも似た感情を抱いてしまいました。スポーツだけではなくても、頑張っても結果がなかなか見えないとしても、本人なりに頑張っていることに対して認めて、リスペクトするようにしたい!と思う今日この頃です。認められる事は自己肯定感に繋がります。自己肯定感があれば自信がつきます。いい事だらけですね。
今年も鍾馗(しょうき)さんの軸が掛かっています。淡川康一先生のお筆です。淡川康一先生は経済学者ですが、禅画の研究者でもいらっしゃいました。学園時代に教わっておりまして、楽しい飄々とした先生で、いつも扇子を持っていらしてその扇子でご自分の頭をポンッと叩かれて、ホワイトボードにサラサラッと仙厓さんの禅画を描いてくださっていました。何とも楽しい授業でした。
淡川先生が鍾馗さんの画の説明をしてくださっています。日本語が難しすぎてサラッと読んでも読めません(笑)「五月に鍾馗の図を挂用するのは」掛けるって事?だと思うけど‥‥辞書には挂(掛)、ひも、釘等でぶら下げる、掛ける、つるす、やっぱり掛けるって事ね。と納得!
「この月の節物たる梅雨が、衣物皆黴(かび)を生ずる故に、黴雨(ばいう)の義より転じたものといわれていることに因んで(ちなんで)、黴や毒物を清掃する神たる鍾馗を懸用(けいよう)するのである。しからば、何故に、鍾馗神にこの霊験があるのか。それは次の故事による。唐の世に、終南山の進士(しんし、進士という事はここでは科挙に合格したことになってる?)なりとて、玄宗皇帝の夢に見えて、天下の虚耗の妖孽(ようげつ、あやしい災い、不吉な事が起こる前触れ)を厭わんといいし人、常に魔を駆るとする、その後巨眼多髯にして、黒き衣冠を着け、抜剣して、小鬼を捽する(そつする、つかむ、引っ張る、抜き取る、手で握る)。出典は、群書、事実および詩文などを類聚(るいじゅう)した「事文類聚(じぶんるいじゅう)」にある。黴菌、すなわち邪気を、鍾馗、正気が追放する。禅でいえば正念相続の要諦(ようたい、ようてい、物事の肝心要のところ)である。」これだけ読んでも辞書を引き引き読む必要がある私はどうしたらいいの?と思ってしまいます。
正念相続、難しいです。円覚寺の横田南嶺老子のお言葉では、「無念」というのは、何も思わないことではなくて、「一念」に通じ、「正念」である。過去のことや、未来のことに気を止めないことです。大拙先生が「正しく受ける」花を見れば花と見る。山を見れば山と見る。鴉が鳴けば鴉と聞く。と説いてくださっている。と仰っています。これが難しい💦禅宗の和尚様方とお話しをさせていただいていると、よく、拘らないで、自然に感じたままに!と仰います。いつになったらそういう気持ちになれるのでしょう?なれない自信はあるのですけれど(笑)
祇園祭もお稚児さんが毎日祇園さんにお参りされる時期に入りました。祇園祭も疾病退散のお祭りですし、蘇民将来のお守りもそういう物ですし、祇園神である牛頭天王(ごずてんのう)も粽も、蘇民将来のお守りも、鍾馗さんも家に置いて、守って頂きましょう!
鍾馗さんの事は前にも書いたような‥‥検索してみてくださいね。
宗香