お知らせ・コラム

久しぶりの京都へ

サッカー日本代表がブラジルに初めて勝ちました!すごい事です。1996年アトランタ五輪1次リーグのマイアミの奇跡も凄い事でしたが、A代表同士の国際Aマッチではなかったのでカウントされないのですね。
世界バレーや世界陸上、サッカー等で国歌が歌われます、世界の国の国歌はどちらかと言うと気持ちを鼓舞するような曲が多い中、日本の国歌は静かな控えめな印象で、世界の人達にはどの様に感じられているのかしら?と思いますが、私は日本人の穏やかさや控えめさの中に秘めた内なる強さを感じて、さぁ!やるぞ!と思います。

徳禅寺の和尚様に呼ばれて護寺会の総会と茶会に伺ってきました。
総会では芳澤勝弘先生による「江月宗玩」のお話しをうかがいました。江月和尚の御生涯、徳禅寺再住偈、とても興味深く聞き入ってしまい、あっという間の1時間でした。
堺天王寺屋、津田宗及の御二男としてお生まれになり、6歳ですでに笑嶺宗訴に随い、7歳で春屋宗園に随待、15歳で祝髪登具、42歳の時に大野治房が堺に火を放ち故郷堺が滅亡、傷心の江月和尚が詠まれた詩「五十年間幾欠伸」より欠伸子と書かれているのですね。
その後紫衣事件で玉室、澤庵が奥羽に配流されますが、江月和尚は許されます、1人だけ許された為「降る雨に 沢の庵も玉の室も ながれてのこる にごり江の月」と批判の落首も出て、こんな江月の書いた物なんか持っていられるか!と捨てられた軸が多数あったとか。。。。。ですが、老中より、三人とも流されてしまっては本山が荒廃してしまうからあなたの責は免ずる!と。。。その時に「但だ吾が門の二甘露(玉室、澤庵)を欠く、伏してこい願わくは赦を賜って、同じく携えて龍宝の故山に帰らば、太幸ならん」しかし、江月の志は叶わず悲しまれ、その後お二人の赦免を願い江戸に度々赴いていらしたと。。。。江月が59歳の時に玉室、澤庵は許される、66歳の時に徳禅寺に再住、70歳にて遷化なさった御生涯だったそうです。
本堂で江月和尚の徳禅寺再住偈の軸に見守られながらお話しを伺い、感謝の時間でした。
その後、嵐山吉兆さんでの茶会、お食事、毎年お会いする方々、久しぶりにお会いできた方々と愉しく贅沢な時間でした。
吉兆さんには、大徳寺管長猊下もお出ましになり、御尊顔を拝する事もでき、何にも代え難い時を過ごさせていただき感謝に堪えませんでした。
和尚様、貴重な体験を有難うございました。
次の日は、美術館等に行こうと思ったら、祭日月曜日の次の日でお休み!という事を、さぁ!行こう!と言う時に思い出し断念!お買い物をしたりして帰ってまいりました。
        宗香

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