唐津から有田へ
今回の研修の手配や案内等、全て心配り頂いた李荘窯業所の代表でもあり、陶芸家でもいらっしゃる寺内信二氏の李荘窯業所へ。
窯業所の表には、日本白磁器有田焼の祖、李参平(金ヶ江三兵衛)邸の碑が建っていました。
窯業所の中をご案内いただいて、分業の様子を見せていただきました。形を作っている様子、細かな絵付けをなさっている様子は熟練の極みで、中国の景徳鎮でもこうやって絵付けをしていたなぁ!磁州窯は有田や景徳鎮と違って伸び伸びと大らかに絵付けをしていたなぁ!と思いながら食い入る様に見てしまいました。
作品が置いてあるお部屋にもご案内いただき、昔からの有田焼や今流行りのレストラン等で使われる現代的な作品を楽しく拝見いたしました。
窯業所のすぐ横にある「天狗谷窯跡」へ、有田焼の創業期を代表する江戸初期の窯跡で、李参平も此処で焼いていたと伝わっています。李参平が原料の磁石を泉山磁石場で発見し、有田が磁器生産を本格化していく最初期の釜の一つです。少なくとも4基以上の登窯とそれに伴う物原(ものはら、失敗品の捨て場)が確認されています。段々の窯跡(階段状連房式登り窯)に沿って登れる様になっています。ハァハァいいながら登って来ました。
天狗谷窯跡から降って行くと川に唐臼が再現されています。大きな唐臼がギーガッタンと磁石を砕く様子が見られます。
昼食は有田焼をふんだんに使ってお料理を出してくださる「保名(やすな)」さんへ、そこから有田町歴史民族資料館の館長、村上伸之先生と合流、お料理の前に有田焼の歴史等を講義していただきました。講義内容は沢山ありすぎて書けませんが、とても興味深いお話を聞かせていただきました。お料理も美味しく頂戴しました。
いよいよ泉山磁石場へ、17世紀李参平が探し回り、漸く見つけた陶石、ここから陶器が主流だった日本の陶磁器生産に大変革がもたらされ、有田周辺に磁器窯が多く築かれたとの事。
良質の陶石は皿山(窯が集まる所の事を山と言ったらしいです)代官所が管理し、最も上質な物は御道具山(鍋島藩窯)が使い、それ以外を内山、外山の窯が使っていた!四百年かけて一つの山を焼き物に変えた!と説明が。
まだまだ大きな石がゴロゴロと有りました。普段は随分手前に柵があり入れませんが、今回は特別に中まで入れていただき、急な道を登り、迫力を感じる事ができました。手に掴まってじゃないと滑って危ないから!と川瀬先生が上にいて手を差し伸べて下さったのですが‥‥‥「川瀬先生!私の体重を支えられます?」の私の問いに「大丈夫!引っ張ってあげるから!」と仰っていた川瀬先生、ズルッと滑った私の体重に耐え切れずオットット!となられて「やっぱりねぇ!」と言う私に「大丈夫、大丈夫、重かった訳じゃなくてちょっと滑っちゃた!」と仰る優しい川瀬先生でした(笑)丁度オットットってなった瞬間の写真を撮って下さった方がいて、証拠写真になってしまいました(笑)
ポツポツ雨が降って来たので、今泉今右衛門さんのところに行きましょう!と寺内氏(今右衛門氏とは幼稚園?からの同級生だそうです)、今右衛門氏はいらっしゃいませんでしたが、美術館に展示してある有田の初期の頃からの作品を一つ一つ村上先生が説明してくださいました。
外に出て住所を見ると、赤絵町!
1640年代に中国より赤絵の技法が伝わって、赤絵付けが始まり、17世紀後期には有田皿山の窯元が150軒前後、赤絵屋は11軒有って、赤絵屋が集まって赤絵町が作られた!と書いてありました。御用赤絵屋としての今右衛門家は斎戒沐浴して色絵付けをしたそうです。
その後有田町立歴史民族資料館へ、休館だったので村上先生の館長室でご説明を受けながら陶片等見せていただきました。
驚きだったのは、手榴弾が沢山焼かれていた事、戦後、進駐軍に見つかるといけないので土に埋めて隠したのだそうです。重かったです。
次に天神森窯跡へ、山へ登って行く途中には幾つもの窯跡が有りました。展望台に登り、向かいの山も、有田の町も一望して、此処であの世界を魅了した焼き物が出来たのだなぁ!と誇らしく思いました。
村上先生も寺内氏も、もっともっとお見せしたい所が有ります、又時間を作っていらっしゃってください!次は2日は取ってくださいね!と仰ってくださいました。名残惜しく有田の町を離れました。
又伺いたいですね。
今日は嬉野温泉で宿泊です。